夏休みだったのか、ただの週末だったのか覚えていない。なぜそこに居たのかも。
両側に山があり、瑞々しい田舎の青い匂いがする川沿いの道で、突然の雨に、走って近くにあった厩舎の屋根の下に入った。
アスファルトから土埃の匂いが立って、とても爽快な雨だった。
厩舎で雨宿りをしていると、向かいのプレハブ小屋の窓からこちらを見ているおじさんがいた。
「おじさん」と呼ぶほど丁寧な人相の人物ではなかった。白髪に、白い髭、鋭い眼光で、こちらを見ている。ハイジのおじいさんをめちゃくちゃ尖らせたようなおっさんだ。
昼間だが、雨のせいで薄暗く、小屋の中はさらに薄暗くて、中の様子は見えない。
手招きされた。
えっ…(げっ…)、と思ったが、もう一度手招きされて小屋の中へ入った。
乱雑で薄暗い。
「食べてけ。」
と、得体のしれない骨付き肉を出された。
ーーーーーやばいところに来てしまった…
一瞬躊躇したが、親切を飲み込もうとして、ひとついただいた。
鶏肉をワイルドに煮付けたものだった。
盛り付けの見た目なんか全く気にしていない。
「馬、好きか?」
「俺の名前はな、◯馬ってんだ。
馬が入ってんだよ。はは!
ここは有名人がお忍びでいっぱい来るんだ。
また来な。厩の掃除したら乗せてやるから。」
おっさんの眼光にちょっと緊張したけどワクワクした。
通り雨が晴れて、その日は帰った。
そんなに間をおかず、またそこに行ってみた。
あの髭のおっさんは、厩舎で働く人たちから師匠と呼ばれている様子だった。
私も、倣って師匠と呼んだ。
師匠は、そこで働く若いお兄さんに、私に厩舎の掃除を教えるように言った。
お兄さんはタカシくんといった。
まずまずイケメンの18歳だった。
師匠が、
「あいつはな、15の時に俺が拾ったんだ。
小学生の時からタバコ吸ってな、喧嘩して、
中学も行かねぇし、悪ガキだったんだよ。」
と言っていた。
どこで拾ったんだろう?
高校は行ってないの?
と、色々疑問はあったが、なんとなく聞けなかった。
タカシくんは口数はそんなに多くなかったが、優しかった。雑巾の絞り方も教えてくれた。
悪ガキだったとは思えない。
馬の世話もいつも黙々とやっていた。
馬の後ろに回ると危ないと言われているが、
タカシくんが厩舎の掃除をするときは
全然大丈夫だった。
ある日、タカシくんの前歯がなくなっていた。
「前歯どうしたの?」
「昨日酔っ払いと喧嘩してさ、ビール瓶で殴られた。」
タカシくんはやっぱり悪ガキのようだ。
私は馬に乗って、タカシくんはそれを引っ張りながら、
「あー痛ぇな。」
「大丈夫?」
「これ終わったら歯医者行くんだ。奥歯も虫歯あるんだよね。」
「えー。」
「歯の痛さってさ、頭痛とかと違って我慢すんのキツイよな。」
「そうだね。」
なんか、ごめん、と思った。
その日私が乗っていたのはボナンザという芦毛だった。優しくて、よく馬柵の中をくるくる歩き回っている馬だった。
ある日、ボナンザの左目がなくなっていた。
走っていたら石が跳ねて当たってしまったと、師匠が教えてくれた。
その日は曇りだった気がする。
師匠が言っていたとおり、そこには実際、いろんな有名人が来ていた。
ある俳優の愛犬を預かっていて、散歩するのが私の仕事だった。
ある日、その本人がいて「いつも散歩してくれてるの?ありがとう。」と言われた。
大人になって彼の活躍やスキャンダルを見ても、ただ不思議な気持ちだ。
毎夏見ていたドラマに出ているひととキャッチボールをして遊んだこともあった。
職場に貼ってあるポスターにそのひとがいて、先日ふと思い出した。
また別の日、厩の日陰に綺麗なお姉さんがいた。
深緑と紺色が似合う、スラッとした女性。
直感的に日本離れしている印象だった。
仙台で英語の先生をしていると言っていた。
イギリスに居たんだって。
どうしたら英語を話せるようになりますか?と聞いたら、
英語を話す人と付き合うことだね。
と言っていた。
英語を話せないのに、どうやったら英語を話す人と付き合えることになるのか、不思議だった。
なんでかわからないけど、いつしか厩には行かなくなった。それから程なくして、厩舎自体が遠くに引っ越してしまった。タカシくんも引っ越したのかな。
人って、いろんな面があるんだなと思う。
タカシくんは悪ガキだったのに馬や私には優しかった。
有名人の彼らは人間だった。
厩舎でのことについて、いくつかの強烈な思い出の他は、全てが抜け落ちている。
厩舎に通っていた時期は嘘みたいな不思議な時間だった。
学校の版画の授業に、厩舎にいる馬の写真を持って行って、板に刻んだ。私の記憶はそれで終わりだ。