オカマバー
私が通っていた小学校の坂の下のそろばん教室の脇に、真っ白な洋風の建物があった。
少しボロくて、蔦が絡んでいて、庭の木々は枯れかけて、駐車場は砂利。
人通りのあるこちら側の面には窓がなくて、白い壁の真ん中に白い扉が付いていた。中の様子は窺い知れない。
扉の左横には、真っ赤なネオン管で書かれた「忘却の河」の文字があり、日が落ち始めると煌々と怪しく光っていた。
ある日突然同級生の誰かが、「そろばんのとなりのさ、"忘却の河"って書いてあるとこ知ってる?あそこ、オカマバーらしいよ!」と言った。
学校帰りに、家が近所のヒロカズと一緒に様子を窺いに行った。
ヒロカズは、凍ったプールに石を投げ入れようとして近くの車の窓ガラスを割り、お小遣いなしにされるようなバカだから、建物の前に着くなり、
「オカマバーーーーー!!!!!!」
と叫んだ。
もっと接近して、できれば建物の奥の様子まで見たかったのに!
オカマが飛び出てきたらどうしようとヒヤヒヤしたが、急に可笑しくなって、ゲラゲラ笑いながらふたりで走って逃げた。
早く大人になりたいと思った。
大人になったら、絶対にあそこに行く!
家に帰ってお母さんにオカマバーのことを話した。お父さんも帰ってきた。
両親はふたりで
「あそこ、○○さんとこの知り合いがやってなかったっけ?」
「あれ?死んじゃったんじゃないっけ?」と話していた。
でも今日もネオンついてたもん。
それからもオカマバーはいつも気になる存在だった。
出掛けた帰りにお母さんに頼んでわざわざ建物の前を車で徐行したこともある。
飲み会帰りのお父さんに、「今日は誰か忘却の河の話してなかった?」と聞いたりしていた。
国語の先生にも話した。「素敵な名前ね。」と言われた。
大きくなってからたまたま前を通ったら、ネオンが消えていた気がした。
少しボロかった建物は、本当にボロくなっていた。
結局、忘却の河の正体がわからないまま私は大人になり、引っ越してしまった。
オカマさんは本当に死んでしまったんだろうか。
そもそもオカマバーって本当なんだろうか。
勇気を出してあの真っ白な扉を開けなかったこと、とても後悔している。
子供の頃は、田舎にはめずらしいオカマバーに興味深々だったが、いま私にとって忘却の河がオカマバーだろうとそうでなかろうと、どちらでもいい。
ただ、この素敵な名前を付けた人物に会いたいと思う。ど田舎で、あんなに素敵で怪しい雰囲気の店を構え、真っ赤なネオンを設えた人物。
あの白い扉の向こうにいたであろう、その人に。
そして大人になったいまは、忘却の河に溺れたいと切に願う。窒息してもいい。
明日、福永武彦の「忘却の河」を探しに行こうか。